なんちゃって北の国から




11月に入りました、いよいよアレがやってきます。
この地に来て、頭の中から離れることはなかったのはアレのこと。
今年の夏はアレのための準備期間だったと言ってもよいだろう。

家の準備、生活の仕方もかなり変わるだろう。蒔きストーブも買った。
薪きストーブは鋳物からできたものと、鉄板でできたものがあって、僕らが買ったのは鋳物の方。薪のもちが違うらしいのだが、そちらを選んだ大きな理由は、ガラスの窓がついていること。鉄板製のにはない。
カトキチが「鉄板製でも充分に事足りるんだけど、火が見えないからつまらない」って言っていたのを聞いていたので、自分が買うときは鋳物にしようとずっと計画していた。居間の真ん中に火が燃えてるってどんな感じだろう?わくわくしてくる。(じいちゃんの家のペチカの火をいじるの好きだったな。それがさ、本当にいじった日はおねしょするのよ。佐波くん、どういうこと?)
ただ、割った薪の量が少ないかったかもしれない。ある人に「この3倍くらい必要だよ」って言われて少々不安になっている。それに最低でも2年ぐらい乾かさなければ、良く燃えないとも言われた。しかし、鋳物のストーブは鉄板製のものと違って、少々乾いていなくてもがんがんに燃えるそうだ。
あと、パッと燃えるけど、すぐに燃え尽きる木。派手には燃えないけど、長く燃える木ななどがあって、それを使い分けるといいって大家さんが教えてくれた。
そういえば、割ると中がまっ黄色な木があって、アムちゃんはそれを「カレーの木」って言ってたな。とにかく薪ストーブがこの冬の一番のお楽しみになるのは間違いない。

ストーブとともに準備したのは、家の中の細かいところ、階段の天井や、暖かい空気が漏れそうなところにはスタイロフォームを貼った。
2階の部屋の天井には卵のパックを貼ったのだが、これは北の国からのロケ地に遊びに行ったときに、セットがそうしてあったのを見て、そのアイデアをいただいた。しかしどれぐらい効果があるのかはかなり疑問。オーディオの音はかなり良くなったが。

今年の春に入ったとき分かったことは、寒さそのものよりも、すきま風がものすごく寒さと関係があるってことだ。その時はテープを貼りまくったのだが、真冬はそんな程度ではどうにもならないだろう。こっちの家は窓ごと透明なビニールでカバーしてしまう家が多い。ただそれでは外の景色がクリアに見えなくなるので、あんまりやりたくない。
たぶんこの窓からの景色をずっと眺めている時間が、ここでのぜいたくであり、その時間は多くなると思われ。

完全ではないが、思いつくことはやった。

内股で気合一発「しゃーこらぁ!」

それにしてもアレは嫌われ者。老若男女みんなアレを嫌う。アレのことを話すときは眉間にしわが寄る。うつむきコブシを握る。
そんなに酷いのか?アレ。でもここらのアレは半端じゃないらしい。

願わくば、初めて会うアレが最低で最悪な酷いアレであってほしいということ。
本性を見せて欲しいということ。小出しにして欲しくない。
だって、もし生半可なアレで、アレの本性がわからなくて夏になったとして、

「今年のアレはアレだったもんねぇ…」

なんて不気味なことを言われたら、また夏の間中不安がつのるだけだから…
僕らの経験したアレってただのアレだったのだろうかって。
もし耐えられないアレならアレで、我慢するつもりはない。別に耐え忍ぶために来たわけじゃない。逃げる。ワイハに逃亡。インチキそば打ちのテクニックをアピールしてグリーンカード取得。老後の楽しみは夕暮れに孫と一緒にビーチの散歩。そのときいつも話すのは、遠く離れたあの土地の厳しいアレのこと。

「ケイイチ、あの真っ赤な夕日の向こう側からおじいちゃん達はやってきたんだよ。新鮮な空気と新鮮な水、おいしい野菜、やさしい人達。しかしそこのアレは物凄く強烈でな…とてもじゃないが耐えられなくて、おばあちゃんと一緒に身ひとつでこの南の島に逃げてきたんじゃ。仲間を裏切ってな。」

「おじいちゃん、その話、何回も聴いたよ。冷蔵庫に手を入れると温かく感じるくらいのアレの話でしょ」

「そうじゃったか。では、ここに渡る途中の太平洋のど真ん中でセックスして生まれたのが、おまえのおとうさんだってことは知っているか?」

「それは初耳だよ そこ教えて」

生半可なアレは結論を出すことを長引かせ、出国を単に1年延ばさせるにすぎない。

ただ、なんとなく大丈夫なんじゃないかなって感じてるんだけど。
というのも、たとえば冷える日、自分らはセーターでも着ようかなと思う日があったとする。そういうときに、先にアレを体験しているアムちゃんがTシャツ姿でコロの散歩をしていたら、そりゃ落ち込む。こりゃ、体の作りが違うわいと。
地元の人がランニングでトラクターに乗っていたら、荷物をまとめる。こりゃ、こういう人しか住んではいけない土地なのだと。
しかしそういうズレは今のところなかった。自分達が寒いと感じた日は彼らも寒いと感じていたみたいだった。それどころか、僕らよりもっと寒がっていた感じもある。彼らが過ごせるのだから、僕らも大丈夫じゃない? 死なないよ。

父からもらった屯田兵の本を見る。屯田兵は自分のひいじいちゃん、ばあちゃんの世代。
彼らが蝦夷地に入った瞬間、彼らはいったい何を感じたろう?
「なぁに、長い人生の中で見ればちょっと大変なだけだったさ」って言うかも。
でも、そのど真ん中に居るときは絶対ちょっとじゃなかったはず。1日1日の単位で区切れば、その中ですごく気持ちは揺れ動いたはずだ。記憶は薄くなるのみ。僕もそうだった。ここ(NKK)を見ればよくわかる。

なんでこんなにテンパッてたの?俺。 ただの引越しなのに。

情けないことに、この春、この廃屋に住むことになっただけで、少したじろいだ。
自分が選んだこととはいえ、あまりの環境の変化についていくことができなかった。
環境の変化というより、ゼロに慌てた。
ムラや仲間が居るから本当のゼロではないのに。
ブチッと糸を切った瞬間、同時にすごく不安になった。寂しさも感じた。なんだろな?あの感じ。それは予想もしていなかった。
自由は喜びと同じ意味だと思っていたので。

カードの片面には凄く陳腐な言葉だが「希望」って書いてある。
もう片方には「ゼロ」って書いてある。
それがクルクル回って、表が「希望」になったり「ゼロ」になったり。
自分の周りの環境は何も変わらない。綺麗な山がいつもそこにある。自分の中だけがクルクル回っている。
「ゼロ」が出るたび、根気よくそのカードをひっくり返す。そして、それはやがて出なくなった。つまり、この環境を「希望」にするのも「ゼロ」にするのも自分しだいなんだな。カトキチはそういうことを知っているし、ひっくり返すことのできるやつ。ひっくり返すのを楽しめるやつ。周りにそういう仲間が居なければ、たぶんもっとたじろいだろう。

だからここは綺麗事は書かずに、赤裸々に感じたままを書いているつもり。
それはいずれ、見るのも恥ずかしいぐらいのものになるって分かっていても。あえてそのとき感じたままに。その方が、僕らのような選択をし始める人にとって、参考になると思うから。「最初はこんなにテンパっててもなんとかなるもんだよ」って言いたいから。

屯田兵の人達もテンパったと思う。いや、テンパったなんて言葉を使ったら失礼だ。
ずっと泣いてたおかあさん、凍死した人、去らざるえなかった人もかなりいたそうだ。
大半が武士の出身。つまり農作業は素人。密林のなかに建つ粗末で隙間だらけの非寒地用兵舎に身ひとつで連れて来られ、多少の配給はあったにせよ、自分らの食料は木を倒して畑を作ることからはじめなかればいけないと知らされた人間の気持ちを真剣に想像するとめまいがする。僕の「ゼロ」と度合いが違う。それは同じ人間、そんなに昔じゃない日本人の体験したこと。
その本によると、あまりに気の遠くなるような作業なので、とにかく明日のことだけ考えることにしたそうだ。先を想像すると気が狂うので。
そんな風にして北海道は少しづつ開かれた。今はこの土地で育ったことを誇りに思う。

最近また久しぶりに初期の「北の国から」を見た。
このドラマ、何故か昔から僕の周りの女性人には受けが悪い。
たとえば僕の母親とか、職場で横に座っていた女性とか、友達の奥さんとか。
理由は「夢も希望もない」から。つまりそこには悲壮感しか見えないらしい。
確かに、とらえようによっては「夢も希望もない」もない話だ。
田舎のあばら屋に住む、貧乏子連れバツイチの話。
80年代の大多数の日本人にとって「夢や希望」はああいうものではなかった。
今、あのテレビシリーズが始まったとしたら、だいぶ僕たちのとらえ方は違って見えるかも。母でさえ「夢や希望」が描かれていたのに気づくかも。そういう意味では早すぎたドラマだったのかもしれない。時代はすごく変わった。だけど、その変わり目はすごく分かりにくい。それは今なのかもしれない。いや今だ。レッツダンス。

「北の国から」には昔の麓郷が写っている。
遠い世界の絵じゃなくて、この家の玄関を開ければ見える景色。
見るポイントが変わってきている。
それでもやっぱりおもしろい。いろんな意味で逆にもっとおもしろくなってるかも。

毎週放映していたころから、僕が身近に感じていたのは、当然、純だ。
自分が長男で妹一人という設定が一緒だし、歳も近い。
ずるがしこく、自分のことしか考えられないのも良く似ている。
あとあのドラマ、北国育ちの人ならわかると思うけど、着ている服がやけにリアルだった。
本当に子供のころはあんなカッコしてたよ。
ドラマの中の純の目線は、はじめてこの家で夜を向かえたときのあの感じをよみがえさせる。あの感じだよ、あの感じ。
ただ、今回見てビックリしたのは、今の僕ってドラマ中の五郎と同じぐらい歳なんだ。
純の気持ちも凄くわかるし、今となっては五郎の気持ちも凄くよくわかるんだ、これ。つまり倍楽しめる。

ドラマの中では五郎の弱さってあまり描かれてないけど、離婚して、子供を引き取って、あばら屋に住みだすなんて、相当タフじゃなければ出来ないよ。

ま、そこはドラマだけど。

当然、寂しいのは間違いない。寂しくないわけないよ。揺れ動いてるよ。
それでも、子供を連れてた以上責任ってものもあるし、子供に弱いところを見せれない。しなければならないことは山ほどある。あり余る金でログハウス買って、悠々自然生活ってわけにはいかないんだから。君はできますか?

ま、する必要もないんだけど。

ただ、五郎にはたくさんの仲間が居た。そして僕にも居る。だけど、正直、もうちょっと欲しい。

今回見て思ったのは倉本聡が自分を一番投影させていたのは純じゃないか?ってこと。
もっとも誰かに投影させていたらの話だけど。でも、なんかそんな気がした。
五郎は憧れの存在として描かれていたんじゃないかな。あっ、やっぱりそう? 

そして俳優の北海道弁、訛りの習得度もまちまちで面白い。
僕も訛りが戻りつつあるみたい。北海道弁はたとえば字にすると、さほど標準語と違いない言葉が多い。「行ったんだ」は「行ったんだ」と言う。「行ったっちゃ」にも「行ったもんで」にもならない。だけど語尾のイントネーションが違う。これがかなり微妙な上がり方。
全体的にちょっと変調したような聞こえ方がする訛りなんだけど、北の国からに出てくる俳優のしゃべる訛りはちょっと大げさ。派手すぎ。
中ちゃん、そこまで変えちゃだめなんだ。
その中で一番上手いって個人的に思うのは岩城洸一だ。
訛りそのものもだけど、しゃべるテンポや、心ここにあらずな感じ、ちょっとガサツな感じが凄く北海道人っぽい。画面に映る景色によく馴染んでいる。この土地のホコリがちゃんと体に付いている感じがする。上手だと思う。
あと大滝秀治が竹下恵子に牧場で働くことを止めるように説得するシーン。シブいよねー。「ディアハンター」のラストシーンぐらいのシブさ。凄く重い会話なんだけど、部屋の中は洸々と明るくて。あれはわざと明るめにしたんじゃないかな?そのギャップが深さを増してる。
周りに何もない、そして深い雪に囲まれた家の居間が暗めってのは不自然だ。
周りの自然が圧倒的であればあるほど、それに飲み込まれないよう明るくしてしまうのは本能だと思う。
あの蛍光灯の節操のないくらいの明るさ。

アムプリンのみんなも段々訛ってきている。訛るのを楽しんでる。
でも、道産子の僕から見るとちょっと違うんだよなー。みんな、ちょっと背伸びした訛り。
もっともカトキチはその微妙に大げさな訛りを、わざと言ってるんだけど。
ムラは訛りを意識しるのかいないのか、逆にヘンテコなことになってしまっていて、かなりオリジナル度が高い訛りをしゃべっている。ムラ弁。個人的には好き。
そんな中で一番習得しているのはアムちゃんだな。
すごく自然な箇所で自然なトーンで話す。耳がいいのかな。
電話しているのを横で聞いていて、たまに出てくるナチュラルな北海道弁にビックリするときがある。

話しがいきなり変わって、この「NKK2007」
NKKってどういう意味って全然聞かれない。おかしい。
当初は、もう会う人、会う人に聞かれるぐらいのことを予想していた。

「えーっ、またその話」

「それさ、ちょっと今、言いたくないんだよね」

「どうしても教えて欲しい? ビール奢ってよ」

「じゃ、教えてもらいたい人、ここに3列に並んでー」

いかにして教えるのをもったいぶるかを空想してニヤニヤしていたのに、今まで聞いてきたのは自分の父親のみ。

だっふんだ。

もういいかげんもったいぶるのもこっぱずかしくなってきたので発表します。

NKKの意味はこの文の一番上に書かれている今回のタイトルです。

だっふんだ。




今週読んだ105円本
「聖なる予言」 J・レッド・フィールド著

追伸1 下の五郎のイラストは、ここに良く出てくる佐波君の10数年前の力作です。

追伸2 プレインジャパンでは「3?POINTS SUPPER」に参加してくれる方をを若干名募集します。なるべくなら北海道、東京、三重地区以外の方で。マイペースで末永くやってもらえる方。画像をパソコンに取り入れ、サイズを変更できるぐらいの知識とデジカメが必要です。興味のある方は「CONTACT JAPAN」よりご連絡ください。よろしくお願いいたします。