パンチの無い僕と団地の無い風景




家の中では相変わらずテトリスさながらの荷物移動。
それは単に移動している風にしか見えなくもないのだが、それはそれなりに序所に進んでいた事が、1週間も経つとハッキリとわかる。
改修できる所と見て見ぬフリをする所を、まずハッキリと分ける。気になる所を全部直していたらきりが無い。

なぁ、しょうくん…。くさったはしら、しずんだきそ、かたむいているゆかを、むしできるぐらい、おじさん、すこしたくましくなったよ。

東京からの荷物を開封して並べるごとに、少しづつ居心地が良くなる。なんだか自分が少しづつ広がっていく感じだ。段ボールの散らかった部屋の中で、無理矢理にお香を焚きはじめる。


「なぁ、今、ここでお香かいな…」


「???  誰がニルヴァーナやねん!」


でも嗅覚って大事だ。知ってる匂いが広がると、そこが段ボールの中だろうが落ち着く。
こういう時のムラは、もう俺に何も言わない…。

「変なおじさん…、変なおじさん…、変なおじさんったら変なおじさん…」。
ムラ、心の中でこう歌っている、たぶん…。ダッフンダッ!!


最近の平沢は昼はそこそこ暖かくても、やっぱり夜にはビックリする程冷える。これはメリハリがあって良い。この気温のメリハリは温度差が必要な野菜にはすごく最適で、この地域は日本の中でも有名な野菜の産地なのだ。
俺もアスパラになったつもりで、夜空に向かって両手を上げながらこう叫んだ。

「オレーっ!、もっともっと旨くなれーっ!(屁)」


ところで、ここの地区の人達が僕達の為に歓迎会を開いてくれた。
カトキチから事前に、この地区は周りと比べても繋がりが強い地区だと聞いていた。
それは周りをすべて森に囲まれていて、その中に皆暮らしているという、特異な環境も影響しているのかもしれない。バム平はここを「ムーミン谷」と呼んでいるが、まさにそんな感じだ。

その歓迎会の頭でいきなり挨拶をすることになり、緊張&ドモリスピーチ。なんとかそこで、自分はあやしい人間では無いという程度の事はアピールできた。緊張から開放され、やっと、みんなの事が、ゆっくりと眼に入ってくる。

まず印象的なのはお父さんがたくましいって事。
なんか存在がスクッと綺麗に立っている感じの人が多い気がする。あとエロ話多いなー。
隣のお父さんがどんどんビールを注いでくれる。注ぎながら僕にこう言った。
「俺、訛ってるかい?」
僕は呑みかけのビールを吹き出した。近くに居たカトキチが即座に答える。
「お父さん、メチャクチャ訛ってますよー(笑)」

北海道は女性の方が強い土地だと個人的には思っている。
男性はといえば、いい意味でも悪い意味でも、押しが弱い傾向があると思う。

「北海道の男ってパンチがないもんね。」

これは東京で知り合った、バリバリ仕事のできる札幌出身の女性の口から出た言葉。
くやしいけど、俺もそう思う…。
でも確かに一発のパンチはないかもしれんけど、どっこい道産子を倒すのは難しい道(ど)!


そして平沢のみんなで次に印象的なのは、やっぱりもの凄く仲が良いって事。
そして皆、子供のように無邪気に、そして楽しそうにしゃべる。端で聞いているだけで、楽しくなってくる。乾いた風が抜けている。
これだけの人数が、北海道弁で酒を飲みながら楽しそうにしゃべっている感じは、なんかなつかしい。というのも、子供の頃の正月、じいちゃんの家に親戚が勢揃いしていた時の感じとよく似ているから。
この光景は都会の中での人間関係しか経験の無い人は、正直戸惑うかもしれない。
でも、僕の場合こういうのは割りとしっくりくるな。染み付いている感じがする。
当然ながらこの土地は、人を見て選んだわけではなく、むしろ成りゆきなのだが、こういう光景を目にすると、この地域の魅力の半分はこの人たちだと思えてくる。
都会では無くなってしまった、共同体の形がここにはまだある。いや、たぶん都会にもあるのだろうけど、それはあくまでも個人主義の拡張したものにすぎない気がする。ここのそれは、簡単に言えば「家族」に近い。

ある作家が「現代の日本の社会問題の根源の1つには、共同体が無くなってしまったことであり、その無くなってしまった時期は「団地」の出現の時期と一致する」って書いていた気がするのだけど、その洞察当ってるわ!確かにここには「団地」ないもん。ほほ。

でもやっぱり地元の人から見ると、ここに入ってくるのはかなり不思議なようだ。
「わざわざこんな不便なところに、もの好きだねぇ…」 これ良く言われます。
確かにここには自販機の1つも無い。一番近くのスーパーまで車で10分くらいだろうか?
そしてそのスーパーすらも6時半で閉まる!だ・け・ど、

不便と引き換えに、得るもの多すぎ!平沢。

カトキチは以前「不便には割りとすぐ慣れる」と言っていた。
最近の言葉はより一層頼もしい「不便にはどこまでも慣れる!」

やっぱりカトキチはすげぇや。以前にもカトキチは名言を残している。それも合わせて紹介しよう。

「YO!いろいろ人間がゴチャゴチャやってても、アスファルトをめくれば、下はただの土なんだぜ、どーぞよろしく!結局さ、下は土なの!シタツチ!みんな分かってる?ユゥナァームセーン?(一部脚色在り)」

ブラザー、俺、それを聞いた時、ポケーッとするだけで、その意味は正直分かってなかった。でも今はその言葉の意味、少し分かる気がする…。

今回の「BANZAI!カトキチ」コーナーはこれで終わるとしても、いやーその通り!
確かに実際生活してみると、不便は思った以上に苦にならない。逆に考えるのはあの便利って何だったのか?って事だ。
確かに携帯はメチャクチャ便利、車も便利だ。あとネットでの銀行振り込み、ありゃ便利だ…。だけど、便利、便利って、そったら眼(まなこ)引っくりかえすて追いかけるもんでもねぇど、実際問題。あったらものたいしたもんでねぇ。みんな幻だ。なぁ?おっかぁ!

やはり物事には、ある程度のプロセスや緊張感が大事な場合もある。
悲しいかな、省けば省くほど、得るもの、感じるものも、どこか「お手軽サイズ」になってしまうという宿命。
生き物としては確実に退化してしまっているという側面。

たとえば、山頂までヘリで登った者、何週間もかけて自分の足で登った者。
たとえ同じ地点に2人が立ってたとしても、この二人の違いはあまりにデカイ。人生が根こそぎ変わってしまうような体験をしたのは、はたしてどっちか? 



答え、ヘリで山頂に行った方(あわや墜落、死ぬところだったから)



まぁ、どっちが良いか?っていう話じゃなくて、どっちを選ぶのか?っていう事なんだけど。
便利は素晴らしい。ただあまりに、それによってどんどん削られ、ツルッ、ツルッのフラットになってしまった暮らしの中に浮かんでいると、何か、ガリッガリッに傷つき、ザラッ、ザラッにカスれ、パサーッとホコリにまみれた体験や環境に体ごとブチ当りたくなる感覚になる事ないっすか?俺、あったね。(あくまでも、たとえよ、たとえ。実際にホコリまみれになりたいっちゅー話じゃなくて)。実感、つまり日々の暮らしに、何かひっかかりが欲しい感じ。そんで、その摩擦熱で日々燃えたいの。くそったれ「スローライフ」なんて、その火にくべてやれ。
まぁ、これも病気(成人病)みたいなものかもしれない。

命名「ストーンウォッシュ症候群」

そんな日常の中で、こんこんと沸き上がってくるプリミティブな体験への体と心の欲求。
時はついにきたのだ!さぁ、みんな唄おうではないか(半目で)

せぇい いぇーす♪ せぇい いぇーす♪ ×3


こんな感じのことをぼんやり考えつつの今回のお引越しなのだが、その後はわからない。
どうなるかはわからないが、ただひとつ確信していたことは、

いろんな意味で「やぁるなぁら、いっまぁしっか、ねっえー!」ってこと。

だから2年後、(ヨレたエメラルドグリーンのスェットの上からケツを掻きながら)「薪ストーブ?全然ダメだよ、あんなの。すんげーめんどくせー。その点やっぱり灯油ストーブは便利だよー!、便利がサイッコッ!!死刑ッ!!」みたいな振り戻し方になってても、まぁそれはそれでありなのかなと…。そんなスタンスの2007年春(屁)


お知らせ 
このコーナーは隔週月曜更新予定です。